アフォーダンス-新しい認知の理論で、「待合室」のアフォーダンスにふれた。
「待合室」は「患者に治療を待つようアファードする」ものなのかもしれない。しかし、その環境を再構築すると、「来院者に健康を支援するようアフォードする」可能性を模索できないか。仮に「待合室」の環境をそのように定義できれば、知覚者はその環境のなかから「探索」して情報を獲得し、発見できないだろうか?
情報を探索するときの「情報」はどのようなものか?「情報」を「デザイン」すると説明されたら何かデジタル的なものをイメージするかもしれないがそうでもない。
ある地点のある時点における天候や気温、気圧、風力といったデーターは、それ自体では情報ではない。それらはあくまでデータのままだ。こうした膨大なデータがシステマティックにかき集められ、その集積をもとに専門家による科学的な分析がなされ、そしてその結果が誰にでも理解しやすい情報として「かたち」に表されないかぎり、私たちには今日や明日の天気がどうなるかを知ることはできない。つまり、情報デザインとは、何よりも私たちの身のまわりにある膨大なデータを、価値のある、そしてわかりやすい情報へと変換していくための作業にほかならないのである。『情報デザイン入門―インターネット時代の表現術』 P.22
データを「かたち」に表して「情報」に変換する—–これは、私たちの身のまわりで常に起こっている。たとえば、私は定期健診のために歯科医院へ行く。すると担当衛生士の方が私の口腔内を視ながら「ニ、サン、サン、ニ」と声をだす。傍らでは別の方がその数字を用紙に記入していく。これらの数字の羅列は、私にとってデータにすぎず、「情報」になっていない。では、これを「かたち」にしてどのように伝えてもらえるのだろうか?
データはそれ単独では、「事実」を示すコンテンツ(=内容)だ。そこから他のデータと関係をもつことによって情報へと変身する。先でいえば、前回の健診時データと比較されたりして意味を帯びてくる。つまり、個々のデータをあるコンテクスト(=文脈、状況)のなかに置いていくことによって、私たちの理解が深まっていく。
「情報」は私たちの周囲の環境を感じるためにも重要だ。アフォーダンス理論と密接に関連するが、その例として風鈴がある。
風鈴は、いうまでもないが楽器ではない。つまり、音色を純粋に楽しむためにつくられたものではない。風鈴が表現しているのは、音ではなく、むしろ「風が吹いている」という事実である。同P.164
この事実によって、無意識に肌の感度が少し上がりもする。つまり、五感と想像力を働かせて「外」の情報を知覚するようにデザインされている。
「デザイン」という言葉は、専門的知識をもった人びとが表現する特別な能力という印象を私たちに与えるかもしれない。そういう一面もあるだろうし、実際、デザインを生業としているプロもいらっしゃる。
しかし、だからといって「デザイン」できないかというと、私は賛同しない。Web屋の私がデザインできないのは致命的かもしれない。とはいえ、私がクライアントに提供するのは、ディスプレイの表面に見えるモノではなく、「見えるものの背後にある見えない”何か”をデザインする」価値である。
そして、「情報」を「デザイン」するのにもっとも重要なことは、「つながり」だ。「見えるものの背後にある見えない”何か”」を探求し、それらの一つ一つがどうつながっているかを抽出していく。さらに、抽出した要素を「情報」へ変換して、他者から「見つけやすくする」にはどうすればよいのだろうか?それには、他者の行動様態を洞察する高い感度が求められると思う。
アフォーダンス理論と情報デザインという視点から「待合室」のみならず日々の業務を考察すればユニークなアイデアが浮かぶのではないだろうか。